2009年2月13日金曜日

ハコモノ電機メーカー

ハコモノ電機メーカー論というのを考えています。日本の電機メーカーに関して。主にテレビに関して。
箱物行政の「ハコモノ」から来てます。

日本において、国や地方公共団体などの行政機関が行った公共事業について、施設や建造物の整備(設置すること)そのものが目的になり、「それを何に利用するか」や「どのようにか通用するか」が後回しとなった結果、整備された施設が有効に活用されず、結果的に施設が必要とされず無駄の多くなってしまう行政手法を批判的に述べた用語で、過度にインフラ整備に重点を置く行政姿勢を批判する視点からの言葉である

箱物行政 - Wikipedia


:: テレビの役割 ::
テレビの画面に映るものはなんでしょう。テレビ放送、録画したもの、BD、DVD、CATV、YouTube、ビデオカメラやデジカメで撮影したもの、ゲーム、etc。

テレビというものは、どこに置かれてどんな人がどういう状況でそれらを見るのか、それによりそこでどんな経験が得られることを想定しているのか。デジカメで撮影したものをスライドショー形式で家族で楽しんで、家族間コミュニケーションが活性化されることを想定して、そういうことが自然としやすいよう意識した設計がされているかというと、そうではないでしょう。

結局テレビってのは主に国内放送を映し出す「箱」です。どんだけ多機能でもあれをなんのために使っているかというと、たいていテレビ放送(を録画したもの)を見るために使われてるわけです。あとはゲームのモニタ。それはREGZAだろうがVIERAだろうがBRAVIAだろうがAQUOSだろうが、なんだっていいわけで。


:: 神器としての価値 ::
テレビ放送を家族で見れたらどんなに楽しい時間が居間に訪れるだろう、という夢があった時代は3種の神器のひとつとしてもてはやされてたと思います。それを買うとステキ体験が待っていると、皆が妄想したから。テレビ放送というコンテンツそのものがまだまだ新鮮であり、その上に街頭でスポーツ中継を見てその場にいる人たちで興奮を分かち合うなんて体験を家族(や近隣の人達と)の空間=居間に持っていけるとしたら、それはもうwktkです。

テレビ放送というコンテンツをプライベート空間で見るという「箱と中身を通じた経験」が売れたということは、もうその経験のデザインはコモディティ化したとも考えられます。そこから電機メーカーは「箱」の目に見えやすい、お金払ってもいいと大多数が思える品質アップで競いました。明らかにきれいな画面、という付加価値の箱は、けっこう売れたんじゃないでしょうか。でも初めてテレビが家庭空間に入ってきたときと、その本質はあまり変わってないと思います。ラジオ時代から変わってない要素だってあるでしょう。


:: パーソナルコンテンツ用途として ::
現在、テレビという箱の中身を彩るコンテンツを誰でもが作れる道具として、ビデオカメラやデジカメ(スライドショーとか)があります。でも作ったものをテレビの中身として活かしているかというと、そうでもないでしょう。それにそんなに自分で撮影したものって「テレビで」見ますか。何かのきっかけに、ハードなりメモリなりをひっぱりだしてきて、ごそごそっと接続をして、ようやく見る、ということを、一部の人はやるという程度ではないでしょうか。

それはテレビが、個人がカメラ等で撮影したものを(家族などの皆で)見て楽しむためのものとしてデザインされていないからでしょう。同時に、居間にあるテレビという箱の中身を彩る(ものを作る)ための道具として、カメラ等がデザインされていないからでもあるでしょう。また、そういう「(個人作成コンテンツ主体の)居間での経験」のためのものはデザインされていない、または試みられたけれど受け入れられなかった、ということでしょう。その目的と想定している「経験」こそがコモディティ化している、あるいは陳腐である、潜在的にも顕在的にも求められてない、ということを示しているとも考えられます。今は。


:: テレビという箱の「復活」? ::
で、何が言いたいかというと、テレビはかなり用途(の想起)が限定されてる箱に過ぎませんよね、ということ。そしてその用途というのは、テレビ放送を見る、ということ。

某メーカーの偉い人が、

「テレビ事業の復活なくしてエレクトロニクス事業の復活なし」

などと以前言っていたのが記憶にあるのですが、もはやテレビという箱の価値の復活は、中身なくしては有り得ないでしょう。放送の権威が落ち、その他もろもろのコンテンツ配信の価値が上昇し、その閲覧デバイスとしてテレビが最適である、という状態になり、そしてそのデバイスを作れるのは1社しかない、というところまで来てようやく「復活」と言ってもいいのかもしれません。でもそれは、有り得ません。すでに居間なり一人暮らしの部屋なりでテレビで何かを見るという経験は、どこ製のテレビでも可能です。コンテンツの囲い込みをやったとしても、喜ぶ人はいないでしょう。嫌われるだけです。

テレビという「箱」の品質をこれ以上なくあげていけば、中身とそれらによる経験の総体の価値も自然と上昇し、人々の生活(文化)はよりよくなるだろう、だからテレビという箱にどんどん投資するのが正しい、という考えがあるとすれば、それは冒頭に挙げた「箱物行政」の有様にとても似ていないでしょうか。もちろん、放送局や映画スタジオなどで使用する機材も手がけているような電機メーカーだってありますが、「経験のデザイン」でみるような総合的な戦略を持っているのでしょうか。大きい企業ほど、そういうひとつのビジョンの元にビジネスやってるわけではないように思います。


:: PCだってたいていしょせんは箱 ::
もひとつ例を挙げます。VAIO Type P。あれはたぶん、わりと良い箱です。使う人によっては。箱の中身にどんな道具を入れられるのかわかり、どういう道具をどういう状況で使いたいかが明確な人、には評判良いはず。

でも箱です。箱のくせに、ステキ道具がいっぱいつまってて夢がひろがりんぐです、みたいな雰囲気を醸し出してないでしょうか。

さらには、前述の「VAIO Type Pを良いと捉える人」は、そういう勘違いをしていないでしょうか。あれがステキに見えるのは、あなた自身があれを箱だと理解して道具の選定もできる人間だからこそですよ、と。(わかってるならすいません)

良い箱と書きましたが、それでも特定の人向けの箱です。筆入れで考えましょう。一般的な学生向けの筆入れと、美術系の人向けの筆入れ(ってほんとはもっと細かい分野わけた方がいいですが)、は違う箱なのはわかるかと思います。中身も違うけれど。むしろ中身、その使われ方が違うからこそ箱としても異なるデザインなわけで。

まあ面倒なのでさらっと言い切ると「VAIO Type Pは特定の人向けのわりといい感じの箱ですよねー、そう、箱なんですよねー」。


:: 一般化領域での差別化 ::
中身のことも考えての「経験」のデザインができていないハコモノばかり作っていても、コモディティ化領域では価格以外で喜んでもらえることはあまりありません。世界で唯一の箱メーカーであれば、コモディティ化とは無縁でしょうが、そうではない製品がもうこの世には多い。

コモディティ化したハコモノは、使用者の思惑とのズレが少ない中身の詰め込み作業をラクにしてくれるものが喜ばれます。また、中身の箱からの取り出し方が小洒落たものが喜ばれます。あとはとにもかくにも価格。

AppleはiPodで、主に韓国メーカーの台頭でコモディティ化激しかった携帯型音楽プレイヤー業界において、後発ながら成功を収めました。箱のデザイン、箱への中身の詰め方、中身の取り出し方、コストパフォーマンス、すべてで良いと評価されたと考えられます。

ちょっと話が変わりますが、箱への中身の詰め方/取り出し方という点に関して、昔を思い出してみます。
その昔の、カセットやMDのポータブルステレオヘッドフォン全盛期においては、テープ・MDというメディアの録音可能時間の短さという性質が、ユーザの意欲を刺激していたのではないかと思います。60分テープに何をどういう順序で入れるか、何本テープを作るか、そういうふうに自分の携帯音楽環境をデザインする余地が、また楽しかった、実際楽しんでいた、のではないかと。携帯型ではないとしても、今のように何千曲もHDDに溜め込むことは不可能で、CD・カセット棚にライブラリがリアルに存在して、そうやって音楽の聞き方がテープ1本、CD1枚、などの単位になっていることが当たり前であったから、そういう箱詰め作業の楽しみもあり、だからこそ、「中身の選び方、詰め方、取り出し方、いろいろとユーザ任せ」でよく、ユーザ任せでない部分でのみ勝負が可能だったとも考えることができそうな気がします。


:: まとめ ::
飽きてきたので。
ビデオカメラ(やデジカメ)等のコンテンツ作成機器には、このハコモノ論に当てはまらない部分も当然ありますが、日本の電機メーカーの作る商品でAV/IT系の多くのものが、ハコモノ論に当てはまるんじゃないでしょうか。

そして箱ということに無自覚なまま、または中身も含めたデザインが大切ということをぼんやりとしか意識できないまま、結局はハード万歳ハコモノマンセーに陥って路頭に迷ってる企業が多いんじゃないかな、みたいな。

ですって。

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